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  • 2010.12.04 Saturday
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無法者たちによる無法サッカー:レアル・ソシエダvsレアル

 あまりにひどい試合で途中で吐き気がしてきた。
長いことモウリーニョのファンをやっているが、彼の試合でのワーストといってもよい。
(毒舌注意報:ここからは一部の選手についてひどいことを書くので、とくにオフェンスの選手のファンの人は読むのをやめるのが吉でしょう)

問題はチームのことよりも自分のことを考えている無法者が溢れているという点だ。
ポジションをつかみヨーロッパで成り上がろうとしている選手:ディ・マリア、イグアイン、ベンゼマ。
もともとチームプレイよりも個人プレイに重きを置く選手:クリロナ、マルセロ、セルヒオ・ラモス、イグアイン、ベンゼマ。
これらの無法者が好き勝手なポジションで好き勝手なプレイをするから「学級崩壊」ならぬ、クラブ崩壊を引き起こしてしまったのだ。

エジルが消えまくっていたのを元日本代表監督は敵のピボーテに抑えられたと解説したが、本当にそうだろうか?
ロナウドやディ・マリアがサイドを離れて気ままになかに入り込み、イグアインはイグアインでボールがほしいから下がってくる。
トップ下あたりだけが密集してノッキングを起こしてしまったのだ。
プレイに変化をつけるためのポジションチェンジなら大歓迎だ。
しかし、最初っから中に入り込んでシュートを狙ってばかり。
エジルは敵のピボーテに殺されたのではない。
味方の自己中心なポジションチェンジに殺されたのだ。

ディ・マリアがくり返したようなエゴイスティックなプレイが、「個人技を存分活かした楽しいサッカー」、アンチ・フットボールの対極の「楽しいフットボール」だとしたらそんなものは2度と観たくない。

モウリーニョがあんなジェットコースターのような幼稚なフットボールをよしとするとは思えない。
モウリーニョが、チームのことよりも自分を優先する無法者のサッカーを認めたことは一度たりともない。
次の試合に彼がどう出るか、ある意味犠牲者になってしまったエジルの動向とともに注目したい。


エジルから目が離せない

正直言ってこんなにエジルが好きになるとは思わなかった。

いつも自分の応援するチームの敵側にいたし、男の自分が言うのも気持ち悪いが、顔がどうにも好きになれなかった。
ワールドカップでは、敵ながらすごいヤツ、と追いかけかけたのだが、準決、3決では消えっぱなし。
あれ? 
やっぱり大したことないのかな、と。

でも、レアルで再会したエジルはすごかった。

走れるファンタジスタ!?
まさにその通り。
前にスペースがあるとウイングのようにバックラインを切り裂く。
スペースがなくなると後ろに下がってスルーパスを出す。

なにより、モーメンタム(慣性)を活かしてプレイするのがいい。
トップスピードで突っかけて、スピードを落とさないままフェイントを交え、そのままラストパスを繰り出す。
最高速度のままファンタスティックなプレイができるのだ。
しかも視野が広い。

エジルと比べると、クリロナやロナウジーニョはひどく古臭く見える。
モダン。
たぶん今一番モダンな選手なのだと思う。
メッシもスピードがあるが、プレイはもっと粘着的でクラシックな感じがする。

モウリーニョのやりたいサッカーとも相性はよさそうだ。
モウリーニョの下でスナイデルは化けたが、エジルのブレイクはそんなもんじゃない気さえする。
モダンサッカーを代表する選手のような。
にわかファンの妄想かもしれないが、しばらくはエジルを追っかけてみたい。


JUGEMテーマ:スポーツ



指揮官の美しさについて

 モウリーニョは美しい。
 クレジットカードのCMでの彼はまるでハリウッド映画の主演俳優のようだ。

 将が美しいこと。
 それも、女にとっての美しさではなく、男にとって美しく見えること。
 それは決定的に大切なことだ。

 ここで私はエパメイノンダスを思い出す。
 古代ギリシアはテーバイで天才将軍としてその名声をほしいままにした。
 彼が発明した斜線陣というシステムは古代世界の戦術に革命を引き起こし、その最先端のシステムはエパメイノンダスの崇拝者であるフィリッポス王によってマケドニアに輸入され、その嫡子アレクサンダーが「世界」を統一する軍事的原動力となったのだった。
 エパメイノンダスの有能さは単に戦術家としてのそれにとどまらなかった。
 彼は政治的にも(リデル・ハート的にいえば前線の戦術に対する「大戦略」)突出した才能を持っていた。たとえば、対スパルタ戦において、彼は馬鹿みたいに戦争に直進する代わりに、スパルタの周りにスパルタの反乱分子を定住させメッセニアとメガロポリスという二つの都市国家を作り、スパルタを牽制させることで、強力なスパルタ軍の破壊力を半減させてみせた。
 いってみれば、エパメイノンダスは軍人としても、政治家としても群を抜いた才能を持っていたのである。

 そのエパメイノンダスが、マンティネアでのスパルタとの戦いでは勝利の瞬間に最前線で戦死している。
 大勝した軍の将軍が勝利の瞬間に最前線で戦死する。
 それは現代的な将軍観を持った人間にとってはありうるべからざることに見える。
 政治家としても超一流の才能を持つ将軍が、戦士として戦場で倒れたのである。しかも勝ち戦のさなかに。
 この不思議を解明するためには、彼の属していた「神聖隊」という軍について知らなくてはならない。
 「神聖隊」とは、同性愛のカップルばかりをもって編成された軍隊で、後にマケドニアのフィリッポス二世がギリシアを制圧したカイロネイアの戦いにおいて、最後の一兵卒まで打ち果てるという壮絶な最後をもって歴史から消え去ることになるのだが、エパメイノンダスもまたその最後をフィソドロスという稚児とともに迎えたのである。
 愛する少年の前で、将としての智略だけではなく戦士としての強さも見せつけたい、という願いがエパメイノンダスをして最前線での奮迅に向かわせたのだろう。
 ちなみにフィソドロスの前の稚児であるアソピコスはエパメイノンダスの薫陶を受けて当代一の戦士に成長している。
 彼がいかに少年を戦士に成長させたかの証拠というべきであろう。

 強固な軍は、ほとんどホモセクシュアルといってもよいような男の紐帯で結ばれる。
 まるで強固なスポーツチームのように。
 だからこそ、絆と憧れのベクトルの向こうには、美しい男が必要だったのである。



点を入れることは楽しいことではなかったのか?

日本人はシュートを撃つことをピンチと考え、ゴールから逃げようとする。
シュートはチャンスであり、ゴールは最上の喜びではなかったのか?

日本人論とか、いろいろ語るべきことはあるのかもしれないが、シュートがチャンスであり、ゴールが喜びであるというサッカーの原点に戻ることが必要なのではないだろうか。

小学校や、下手したら最近では幼稚園からサッカーを始める。それはいい。
しかし、サッカーを始めた最初から、テクニックやディシプリン、勝負へのこだわりを教えている、そんなサッカーの早熟教育が選手からサッカーをする喜びを奪っているのではないか。

日本はよく「天才ピアニスト」や「天才バイオリニスト」を輩出する。
ザルツブルクでなんとか賞をとったとか、天才少年や天才少女の宝庫である。
でも、彼らや彼女が大人になってどこにいるのか?
子どもとは思えない驚愕のテクニックでパガニーニを弾きまくって大人を唖然とさせるのはかまわないのだが、まるで音符を正確に音に変換するだけのロボットではないか。
早熟の「天才」たる彼らや彼女らが音楽を本当に楽しんだことがあるのだろうか。
あるのだとしたらなぜ彼らは新しい音楽をこの世に創出できていないのか?

ストリートサッカーの楽しさに立ち返るべきだと私は思う。
ゴールを100回外して10回入れて、それでもゴールがうれしくてうれしくて仲間と抱き合って、またぞろ懲りもせずシュートを狙いに行く、そんな歓びに戻るべきだと思うのだ。

喩えは下品なのだが、ゴールはナンパのようなものだろう。
10回振られて1回振り向いてもらえたらモウケもの。ガッツポーズなのだ。
振られたらどうしよう、などとウジウジしていたら一生チェリーボーイで終わるしかない。

暴論なのは百も承知だが、小学校で戦術だのディシプリンだの、小難しいことは止めにしたらどうだろうか。
偽者の「天才」である早熟児を生み出すだけの、才能の促成栽培なんか意味がない。

小学校はフットサルだけにして、戦術やディシプリンと言った勝つための自己犠牲は教えない。
徹底的にゴールや敵を抜くことの楽しさを追求させる。
シュートがピンチでなくチャンスであることが身体の奥底に染み付くまで。

ゴール前で萎縮したり、シュートの責任から逃げるようなプレイはもう見たくない。




自らを意図的にピンチに追い込む「臨界反応」戦略の効用

意図的に自らが率いるチームをピンチに追い込み、その危機的状況をバネに自分たちの持つポテンシャルを究極のレベルまで発揮させる戦略を、動物行動学の用語に従って「臨界反応」戦略と呼ぶことにする
モウリーニョはどのようにこの「臨界反応」戦略をうまく利用したのだろう



最初の1〜2シーズン。モウリーニョがなぜあんなにも敵を挑発するような言動を繰り返すのかわからなかった。
敵の監督を挑発し、審判に噛みつき、協会にクレームをつけ続ける。そんな彼の言動のせいでチェルシーはすっかりヒール(敵役)になってしまったではないか。
マスコミの視線を自分に集めることで、選手をよぶんなプレッシャーから解放する、というのが一つの解釈だったがそんな単純なものかな、と思っていた。
そんなとき、楚を電光石火で攻略してみせた中国古代秦の天才将軍白起の言葉を『戦国策』で読み、はたと得心した。

曰く;
「そこでわたしは、敵地深く侵入し、橋をこわし船を焼いて味方の戦意をかきたて、村を略奪して軍糧を確保した。
味方の兵は、軍営をわが家とし、大将を父母のごとく慕った。
一致協力して事にあたり、死んでも退却しなかった。
一方、楚の兵は、自国の領内で戦ったので、家のことばかり心配して浮き足立ち、闘志がなかった。
だから勝てたのです。」


モウリーニョは、わざと挑発を繰り返し、世界を敵に回すことで選手やスタッフの気持ちを一つにまとめたのではないだろうか。敵に追いつめられた獣たちが一つにまとまるように。

チェルシーが、金目当てに集まった選手たちの寄せ集めチームだと多くの人が考えたがっていることは知っているが、残念ながらチェルシーはおそらくチャンピオンズリーグに出場しているクラブのなかで最もチームの結束の固いクラブの一つだろう。決してチェルシーファンではない粕谷氏が「チェルシーの勝利の雄叫びはカッコいい」といっていたが、あのチームの一体感、結束の強さは、イングランドで「ホモ疑惑」(!!)が出ているほどである。

天才戦略家である白起は、超大国楚の身中に少ない人数で乗り込んでいった時、わざと帰り道である橋を落とし、帰りの足となる船を燃やし、意図的に自分たちを四面楚歌の状況に追い込むことで兵の能力を爆発させた。
モウリーニョが白起と同じことを考えたとしても不思議はないのでは。

ちなみに、動物行動学の世界では窮地に追い込まれた弱者が、そのピンチゆえに攻撃衝動が高められ、追い込んだ強者に逆襲を始めることを「臨界反応」という。
超一流の指揮官は、部下を意図的に危機に陥れ臨界反応に導き劣勢を挽回するのだが、「背水の陣」にわざと追い込まれる部下たちもたまったものではない部分もある。

「動物は恐怖を感じればふつうなら逃げ出すのだが、危険があまりにも近すぎるためそれができず、恐怖が最大限に大きくなっているとき臨界反応が起こる。このような場合には、動物はいわばもう、危険に思い切って背を向ける勇気を失い、ことわざにもなっている「背水の陣」の構えで攻撃するのだ。」
(『攻撃』ローレンツ著 日高敏隆・久保和彦共訳)

ただ、そういう戦略はどのような形であれ危機的状況を好まないクラブ経営者としては困りものではある。もしかしたら、アブラモビッチやピーター・ケニオンにたしなめられたのかもしれない。
06/07シーズンあたりから、モウリーニョが妙におとなしくなってしまったのもそのせいだったのだろうか。



左の本には「ホモ疑惑」も含めモウリーニョに関するニュースがわりと詳細にわたってまとめられている。マスコミ臭さが強くて良質な本とまでは言えないが、モウリーニョに関する事実を確認するにはけっこう役にたった。


   


モウリーニョの理想のサッカー 〜ビッグネーム不要論

モウリーニョの理想のサッカーとは何だろう。
もちろん僕はモウリーニョ本人ではないので彼の心のなかまではわからない。
ただ、ポルト、チェルシーと彼がやってきたサッカーを見てはっきりとわかることがある。
彼のやりたかったのは、超一流の能力を持った選手たちによる「高校サッカー」だ、ということが。

彼の理想型だった時のチェルシー、04/05シーズンのブルーズは、まさに高校サッカーのようなチームだった。
ドログバやジョー・コール、ロッベンやダフといった、前に所属していたクラブでは絶対的な存在として自由奔放にやらせてもらっていた一流の選手たちが、まるで新人選手のように守備をし、エゴを捨て、チームのために献身的なプレイを繰り広げた。
彼らはなぜそこまで献身的なプレイが出来たのか。
それは彼らが、「知る人ぞ知る」レベルの好選手ではあったが、ロナウドやロナウジーニョのような、世界中の誰もが名前を知っているビッグネームではなかったからだと思う。
自分の本当の実力。自分だけが知っている自身の実力と、外からあたえられたそこそこの好選手という冷ややかな評価。そのギャップこそが、ナポレオンのいうところの「野心」、強烈な上昇志向へと変化し、モウリーニョが要求する過酷なまでにタフな仕事をこなす原動力となったのである。
普通金満チームといえば、超一流選手たちが片手にブランデーグラスを持ちながら葉巻をくゆらせながらやるようなプレイを想像する。
しかしチェルシーは違った。ピッチの端から端までボールを追い回し、敵のマークを外すものは誰もいず、最後の1分まで勝利を信じてピッチを駆け回り続ける。
馬鹿正直で泥臭いサッカー。まさに、超一流選手による「高校サッカー」だったのだ。

ビッグネームになりたい。
そんな野心を磁石に固く結びつけられていただけに、モウリーニョのチームには、功成り遂げたビッグネームの入る場所はなかった。
なぜなら、名声を獲得してしまった超大物には、ビッグになりたいという野心がないからである。そして、野心のない選手には、モウリーニョの要求する、過酷なタスクを満たすに足る原動力がないからである。
シェフチェンコもバラックも、能力的にも人間的にも決して足りないところのある選手ではない。逆に素晴らしい資質を持っていることは彼らのキャリアのなかで存分に証明してきた。
しかし、ただ一つ彼らに欠けていたのは、野心だったのである。

モウリーニョの作り上げたチームは、野心をベースに、まるで一匹の獣のようにただ勝利を目指して敵に襲いかかっていった。それはまさに死にものぐるいの戦いであり、ビッグネームをそろえたビッグクラブが生半可な気持ちでぶつかっていっても耐えうるものではなかった。
しかし、その、ただ勝利だけをひたすら求める肉食獣が、野心のない選手が入ることで、野心を求心力として一分の隙もなく結びつけていた重力場が徐々に崩壊し、牙を抜かれたありふれた獣へと変わっていった。

ちなみに、マキャベリズムで有名なマキアベリ(1469-1527)は、中世から近世にかけての最も知られた軍事「評論家」の一人でもあるが、かれはその『君主論』や『兵術論(戦術)』といった主要な著作のなかで、金目当てに集まってくる「傭兵」がいかに有害であるかをしつこいぐらい説き、彼らをすぐクビにして国民軍を創立することがいかに重要であるかを繰り返し語っている。

「傭兵と援兵とは有害無益であって、傭兵の上に基礎を置く国家は堅実でも安全でもない。」(『君主論』 第十二 軍隊の種類と傭兵について 黒田正利訳)
「傭兵が進んで戦場で戦うのは、ただわずかの給金があてで、この給金では彼らの命を捨ててまで戦わせるにはじゅうぶんでない。なるほど傭兵は戦時にあってこそ味方の兵であるが、いざ戦争になると逃げ去ってしまう。」(同上)

外交官として傭兵・援兵問題でさんざん苦労してきたマキアベリには、金で連れてきた傭兵が、平時ではそこそこ役に立つが、全体が窮地に追い込まれたような「危機」においてはまったく役に立たないことがありありと見えていたのだ。
ビッグネームの安易な導入が軍組織にいかなる悪影響をもたらすか、という問題はマキアベリの時代から大きな懸案となっていたのである。

話を現代に戻そう。
モウリーニョという猛獣使いは、野心をエサにチームにすべてを捧げることを求め、そして自らもすべてをチームに捧げ、勝利だけに飢えた一頭の肉食獣をつくり出す。
したがってモウリーニョの指揮するクラブには、葉巻をくゆらすビッグネームの居場所はない。
もしモウリーニョがバルセロナやレアルといったビッグクラブの監督になるとしたら、彼はビッグネームたちに、ビッグネームとしての看板を捨てるか、それともチームから出て行くか、という二者択一を迫ることだろう。
そして一瞬でも答えを逡巡するものがあれば、その選手がいかに大物であってもクラブから叩き出すことだろう。
もちろんビッグネームを叩き出せること、これをモウリーニョは就任の最重要条件にするはずである。

モウリーニョのサッカーにビッグネームの居場所はない。
このことは、モウリーニョが次のクラブを決めた時に、恐ろしいぐらい冷酷に明らかになることだろう。


   


悲しい予言的中

「私はイングランド大好き人間でもあるが、マクラーレンの100倍は無能で保守的なFAがマクラーレンに見切りを付けるきっかけになるのなら、イングランドが予選敗退してもかまわないとさえ思っている。南アフリカまで凡庸な指揮官に残られるより、いま無惨な結果に終わって、癌を切除した方がよっぽどマシだと思うからだ。」
と、以前このブログで書いた、その通りのことがおきてしまった。
『指揮能力の差が残酷なぐらい (ロシア対イングランド)』

イングランドは人気知名度ともに抜群の「スーパースター」たちをそろえているが、彼らは本当にその人気に見合う実力を持っていたのだろうか?
多くの人がプレミアの人気や実力とイングランド代表そのものの実力を取り違えていたのではないだろうか?
私はイングランドの真の実力はそれほど傑出していたとは思わない。
だからこそ有能な指揮官が必要だったのだ。

FAがスコラーリに断られパニックになってしまいマクラーレンを選んでしまった、とBBCはHPで振り返っている。
まったくパニックにでも陥らなければ、W杯で失敗した責任を負うべきコーチを監督に昇格させる、などという愚行がおかされることはないだろう。

またぞろ戦犯探しがはじまり、多くの名前が挙げられているが、戦犯というものがいるとしたら、それはマクラーレンでもなければ選手でもない。イングランド人であるという唯一の理由から適当に監督を決めてしまったFAこそが最もその責を負うべきだろう。
今度はじっくりと時間をかけて監督を選ぶという。
彼らが再び、「パニック」を起こし再び愚行に走るようなことがないことを祈る。
そうでなければ、大きな代償を払って「癌を切除した」意味がなくなってしまうからである。
マクラーレンとはあらゆる意味で同レベルのマーティン・オニールだけは勘弁してくれ。イギリスには、ヨーロッパを勝ち抜くだけの戦術眼を持った指揮官はいない。それが北アイルランドであっても、スコットランドであっても(ゴードン・ストラカンを除く)。


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